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絵画の身体は前を向く| The Painting Face Forward (2012)


展示室のガラス面の枠の形を対面する壁にトレースする。
ガラス面を挟み壁の反対側は棟の入口で、自動ドアがある。
自動ドアの枠の形も同じようにトレースし、先の形に重ねて描く。描かれたものに背を向けたとき、それを見ることになる。


絵画はいつも完成していて、いつも見られる側にある。自分が作り手でなかったら、その絵画のはじまりや途中を見る機会には、なかなか立ち会えない。
この展示室の中で、何が描かれているかを知ろうとすれば、絵に背中を向けることになる。
この構造は、常に「見る」側にいた私たちの立場の転換を象徴する。
私たちが絵画を見ているとき絵画自身もその体の正面をこちらに向けていると考えるなら、
描かれたものに背を向けることは、絵画と同じ方向へ身体を向け、絵画が見つめる先を見つめることだ。 それは、「できたもの」から「できるもの」への視線の移行と重なる。


・対象を指す言葉(=モチーフ)としての「描かれたもの」
・絵具の痕跡によって為された表現を指す、 「描く」動作主に対する動作の受け手としての「描かれたもの」

普段、作品と呼ばれるキャンバス上でこの二つはぴったりと重なっている。
「描かれたもの」という一枚の言葉の形で、一枚の絵ができている。
ここでは、見る人は「描かれたもの」の間に立つことになる。


私が、展示室に入ったときに感じたこと。 ここでは具体的な「モチーフ」を描いた「絵」を見るときの感覚ではなく、モチーフ(三次元)と その複製(三次元)を見るような印象を受けた。でもこの複製には「表面(二次元)しかない」。何故なのか。
そういえば、「絵画の正面/表面性」は絵画そのものについての問題だけれど、この言葉をモチーフに転用して、 「モチーフの正面/表面を絵画面に定着させる」というテーマを思いつく。この作品の制作方法を説明するときに使う言葉の意味を 限定することで、作品を「絵画の正面/表面性」への言及として見ることはできないか。 限定とは、正面という概念を「画布が貼られた壁面に対して平行な面」という意味でのみ使う、ということ。
「絵画として描かれうるのは、対象の正面/表面である」という意味で 、「絵画の正面/表面性」を 解きうるかもしれない。その気づきが、 もう一度向き直ることで「絵画そのものの正面/表面性」へと還ってゆくような、身体の動きに連動する意識の 流れを想像することもできる。
はじめ、これが絵画だとすれば、ここにある絵画性はたった一つ「三次元から二次元への移行」だと思っていた。
でもそうではなかった。
三次元から二次元への移行ではなく、三次元中の二次元部分を抜き出して、そのまま描いていたのだ。
つまり、モチーフは「枠」ではなく「枠の正面」だったのだ。「モチーフとその複製」という直感が、 突然腑に落ちる。


遠近法が距離を経た経験の表現であるなら、実寸は距離のなさの表現ということになる。 距離が生まれれば、時間が生まれる。
絵に背を向け、枠を認め、それがモチーフだとわかる。さらに遠くにドアの枠を見つけて、モチーフだとわかる。 見る人の意識は時間の流れと距離の感覚の中にある。
実寸を描かれた作品は時間を持たない。作品の時間と見る人の時間はずれ続ける。


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